どうも、チャッソです☆
今日は爆睡しすぎて起きたら3時すぎてました笑
じゃあ今日もやって行きます!
デイリーページ
①
- 彼女とカフェに行って作業できたのが嬉しかった。
- 彼女の作った豚肉の炒めたものとかぼす梅酒がうまくて感謝した。
- 彼女と一日楽しく遊べてよかった
②
- 彼女がいる環境がじぶんを強くする
- 彼女が料理の腕を上げている
- 遊びは大事。次は少し計画を立ててみよう。
③
- 良いブログを書きたい
- 多くの人にブログを読んでもらいたい
- 武器になるような知識を身に付けたい
④
- 伝え方を工夫する。魂を文章に込める
- マーケティングを意識する
- 『9プリンシプルズ』を読む
ブラインドタッチ練習
パーキングえりあじゅうで、ファンはずっと湯花を蒸す。
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随分と速くなってます。なぜでしょう。
雑記
生きる意味
なぜ生きているのか?というと、きっと誰もが本当は『自分の本質に近づくため』なんだと思う。きっと時間が必要なんだろう、自分の本音と向き合うには。
本当にやりたいことをやらずに寿命が来たら、きっとものすごく後悔してうろたえる。『おれはどうしてあれをやらなかったんだ!?』『本当はあれがやりたいってどこかで分かっていたのに!!』と思ってしまうだろう。
死に際に、『俺はやり切った。もう何も思い残すことは無い』って心の底から本気で思うために、『いま本当に俺がやりたいことはなんだ?』と日々問いかけているのだ。そのやりたいことが他人から見たらしょうもないことだろうと、下卑たことであろうと、そんなことは俺の人生には全く関係ない。だから、立派な大人になんてなろうとは思わない。誰かに認められようとも思わない。ただ素直に、自由にやるだけだ。
誰にだって恐怖と不安はある。それらが悪い感情だという訳では無い。そういうネガティブな感情がなければ、野生では生きていけなかった。ただ、それらに囚われすぎてしまうと、自分の本意で生きられなくなる。
『俺はこんなふうに生きたいんだ』という願望が強ければ強いほど、不安と恐怖が自分の人生に及ぼす影響が小さくなる。だから、夢を持とう。それが叶うことを、強く強く願おう。
小学生の時に空手をやっていた頃
最近、空手をしていた時のことを思い出す。それも小学生だった頃の試合のこと。
朝いつもより早く起きて、緊張と不安を深呼吸で紛らわした。
みんなで大型バスに乗って、賑やかに騒いで、試合会場に到着した。
色々な人に期待されて、嬉しいけれど負けたらかっこ悪いな、とか思った。
1人でコートの前で自分の順番を待っている時、とても緊張した。でも何にも頼れない。不安でいっぱいになった。
自分の番が始まると、いつの間にか試合が終わっていた。1度勝つと次からはあまり緊張しなくなって、楽しめるようになった。
試合が終わるとめちゃくちゃホッとして、それまでの日々にはなかった程の安堵感を感じた。
そしてみんなと騒いで遊ぶ。どこで何をしているよりも、この時が1番自由で楽しく感じた。
表彰式が始まる。勝ったら勝ったで誇らしいけれど、負けても別に悔しくなんかなかった。それは会場の空気があまりにも純粋で、綺麗だったから。ただその純粋さの中にいることだけが大切だと感じた。
みんなでバスに乗って帰る。疲れて寝ている人もいれば、後ろに集まってトランプをしている人もいた。トランプをしているのは中学生とか高校生の人たちで、小学生達はみんなその雰囲気に憧れていた。
家に帰り着くと、両親に『よく頑張った』と言われる。ぼくは重いリュックサックを下ろし、拳や面のサポーター、胴当て、ポカリが入った水筒を取り出す。調子が良かった時はメダルかトロフィーも入っていて、それを取り出すのがとても誇らしかった。さらにそれを家に飾ると、自分がとても偉くなったような気がした。
親父と風呂に入って、褒められたり、「成長したな」と言われると、自分の未来がどこまでも広がって、輝いて見えた。何一つ不安や恐怖がなくて、本当に安心して、希望だけが見えていた。けれどその幸せな安心感は数日間続いて、いつの間にか消えてしまう。
こうして思い出すとあまりにも純粋で、涙が出そうになるくらいだ。
あの日々を作ってくれた全てのものに感謝したい。
小学生の純粋さ
小学生低学年の頃、大休憩には鬼ごっこもドッチボールもせず、1人で花壇の花を見たり日の当たらないお気に入りの場所に行っていた。
僕が通っていた小学校は、職員室や校長室、工具が散らかっている部屋など10部屋以上がずっと1列に並んでいた。だから、その外側は長い長い1本の道になっていた。白いコンクリートの道だ。
コンクリの道の校舎反対側には、長い緑のネットがあった。そのネットの外側に小さな花壇がいくつもあった。
花壇の向こう側は大きな校庭になっている。そこでは子供たちがにぎやかに遊んでいた。ぼくはいつもネットの校舎側にいる。
ネットの隙間から漏れてくる眩しい陽の光と、白黒の石でできた花壇、そしてその中に咲く色とりどりの花。この世界には、何一つ欠けているものがなかった。だからその世界は僕をぼんやりと良い気分にさせてくれた。騒がしい場所がすぐそこにあっても、そんなのは自分には無関係で、安心していた。
それと、日の当たらない体育館の外壁が大好きだった。それは石造りになっていてツルツルしていた。暑い夏でも触るとヒンヤリした。誰もいないときを見計らって、よくその石壁にピッタリとへばりついていた。何分も、何十分もへばりついていた。体の奥底から自分を冷やしきってしまいそうだった。そのまま自分が、限りなく純粋なものに変わっていく感覚があった。
力が抜けるほど綺麗な空
僕がまだ北九州に住んでいた頃、夕方に外に出るのが好きだった。赤い夕焼けは好きじゃない。灰色と水色が混ざった空の色が地上に降り注ぎ、自分の周りを満たしている感じが好きだった。
それは騒がしさとはちょうど正反対の質を持っていて、しかし『無』というほど無機質なつまらないものでもない。柔らかくて優しくて、落ち着きのあるものだった。
ぼくはその淡い色に心からリラックスした。その淡い色はまず、僕の表面の細胞全てを満たし、さらに細胞と細胞の間を通り抜けて、自分の最も奥深い所にまで浸透した。それを確かに感じた。
ぼくは目を閉じて、あの純粋な灰色と水色そのものになった。
だから空が綺麗な灰色と水色の夕方には、吸い寄せられるように外へ出た。
その衝動に抗うことはできなかった。